<後編>株式会社オーダーチーズ | ビジネスパーソン研究FILE(就職ジャーナル)

ビジネスパーソン研究FILE
<後編>株式会社オーダーチーズ

今回の取材先 株式会社オーダーチーズ
事業内容:2000年設立の輸入・通販事業会社。フランス・イタリアをはじめとする世界各地から輸入したナチュラルチーズの販売サイト「オーダーチーズ・ドットコム」、フランス・ボルドーのビンテージワインの販売サイト「オールドビンテージ・ドットコム」を運営。ほかにも、オリジナルブランドの化粧品やプレミアムペットフードなどの通販を幅広く手がける。
前編では、入社7年目の野原あす菜(のはら・あすな)さんに、新人時代についてお話をうかがいました。後編では、これまでのキャリアの中で印象に残っていること、1日のスケジュールについて紹介します。

■ 印象に残っている仕事とオーダーチーズで働く魅力

-担当してきた仕事で印象に残っていることを教えてください

入社3年目に、食品・ワイン・ペットフードとは異なる事業の柱をつくるため、新たに発足したコスメティクス事業に携わりました。コスメティクスは、ライフスタイルを豊かにする商品の1つですし、市場規模が大きいだけに「会社の発展に寄与できるチャンスだ」と胸が高鳴りました。

それまでは海外にある商品を日本に輸入する仕事でしたが、今回は自社のオリジナルブランドとしてシャンプーとトリートメントを開発する仕事。商品開発は初めてだったので、まずは外部の新商品開発セミナーに参加し、市場ニーズをどのようにつかみ、そのニーズを商品パフォーマンスにどう反映させ、どのように開発・販売していくのかを学びながら、取り組んでいきました。

試行錯誤しながらメーカーとサンプル作成を繰り返し、自分も使い続けたいと思える自信作『守り髪』が完成した時は、大きな達成感がありました。このシリーズは2013年夏に販売を開始し、事業目標の年商1億円まであとひと息です。

-今後の目標を教えてください

現在は、アメリカから輸入するサプリメントや、皮膚科医と共同開発したオリジナルのドクターズコスメなどの新規事業開発に携わっています。目標は、現在約78億円の年商を100億円にするべく、10億円事業となる柱を10本つくること。そのために、芽が出そうな商品を探して、常に新しい種をまいています。普段から心がけているのは、情報のアンテナを高く広く保つこと。異業種で働く友人や起業した友人と情報交換をしたり、海外出張先では「今、この国ではどんなビジネスが注目されているのか」に目配りをしています。

2015年にはマネージャーに昇進し、自分自身のステージが変わりました。人を育てる経験はまだ浅いので、マネジメントスキルを伸ばすことも目標の一つ。新規事業を立ち上げた自分の経験を後輩に引き継ぎつつ、手取り足取り教えるのではなく、自ら考えて判断できるような成長を促していきたいと考えています。

-働いてみて感じるオーダーチーズの魅力を教えてください

学生時代から思い描いていた、人生を豊かにするような商品やライフスタイルを提供できている実感と喜びがありますし、自分自身が欲しいと思って輸入・開発した商品をお客さまが購入し、喜んでくださる仕事にやりがいを感じています。

また、想像していた以上に裁量が大きいことも、うれしい驚きです。自分がいいと思った商品は、その根拠となるデータや情報を示し、経営陣を説得できれば、世に送り出すことができるのですから。自分の力で新しいことにチャレンジしたい、自分の力を伸ばしたいという人には、働きがいのある会社だと思います。

-学生へのメッセージをお願いします

どんな組織が自分に合うのか、社会に出て自分はどうなりたいのかを、じっくり考えてみてください。企業選びは大手志向になりがちですが、企業名で「すごいね」と言われるのは内定後の数カ月だけ。社会人になった後は、企業名ではなく、手がけた仕事や実績で評価されるようになっていくと思います。

私が選んだのは、当時アルバイトを含めて従業員30名程度のベンチャー企業でした。その選択に不安がなかったと言ったらうそになりますが、大手企業に入ったから安泰ということはありません。私は、大手に入ることよりも、ビジネスパーソンとして自身の能力を最大化することこそが、「安定」の本当の意味だと思っています。今、会社と自分が一緒に成長していくという貴重な経験をしながら、あの時の決断は間違っていなかったと確信しています。

■ ある一日のスケジュール

6:30 起床。掃除・洗濯などの家事を済ませる
9:00 出社。その日の予定を確認し、タスクシートを作成
9:30 部署での朝礼後、メールチェック。続いて、受注チームでの朝礼に参加
11:00 新商品リリースに向けたサイトチェック・システム検証などを行う
12:30 オフィス近くのレストランでランチ後、タブレットで経済新聞をチェック
13:30 部下の報告事項の確認や相談に対応
15:00 国内メーカーと新商品開発の打ち合わせ
16:00 イギリスの取引先と輸入に関する電話ミーティング
17:00 広告出稿のための原稿執筆、新規事業のためのリサーチ
20:00 退社。会社帰りに、銀座・有楽町で買い物や食事を楽しむことも
 

■ プライベート

2015年、同僚の自宅でのクリスマスパーティー。クリスマス商材を多数扱っているので、社員割引で自社商品を購入し、新商品を試食しながらパーティーを楽しんだ。今では毎年の恒例行事となっている。左から2人目が野原さん。

取材・文/笠井貞子 撮影/刑部友康

<前編>株式会社オーダーチーズ | ビジネスパーソン研究FILE(就職ジャーナル)

ビジネスパーソン研究FILE
<前編>株式会社オーダーチーズ

今回の取材先 株式会社オーダーチーズ
事業内容:2000年設立の輸入・通販事業会社。フランス・イタリアをはじめとする世界各地から輸入したナチュラルチーズの販売サイト「オーダーチーズ・ドットコム」、フランス・ボルドーのビンテージワインの販売サイト「オールドビンテージ・ドットコム」を運営。ほかにも、オリジナルブランドの化粧品やプレミアムペットフードなどの通販を幅広く手がける。
2011年にオーダーチーズに入社した野原あす菜(のはら・あすな)さんに、これまでのキャリアと仕事の醍醐味(だいごみ)をうかがいました。前編では、新人時代のお話を紹介します。

■ キャリアステップ (部署名は所属当時のもの)

2011年 東京大学 文学部言語文化学科英語英米文学専修 卒業
2011年 ペットフード事業:4月に入社後、新規事業としてプレミアムペットフードの輸入・通販の立ち上げを経験。イギリスからの商品買い付け・輸入手配・サイト立ち上げ・広告出稿などに携わる(入社1年目)
2012年 コーヒー事業:新規事業としてコーヒー通販の立ち上げに携わる。イタリアでの商品選定・サイト立ち上げ・広告出稿などを経験(入社2年目)
2013年 コスメティクス事業:リーダー(係長)に昇進。新規事業としてシャンプー・トリートメントのオリジナルブランドを立ち上げる。商品開発・サイト立ち上げ・広告出稿などを担当(入社3年目)
2014年 サブマネージャー(課長)に昇進(入社4年目)
2015年 新規事業開発部に異動し、マネージャーに昇進。各新規事業のマネジメントに携わり、国内外の取引先との商談・交渉を統括(入社5年目~現在)
■ 就職活動の時の思い・新人時代のエピソード

-入社のきっかけを教えてください

高校時代から、雑誌などを通して「人生を豊かにするような商品やライフスタイルを提案・提供したい」と考えていたので、出版やテレビなどマスコミ系企業約20社にエントリーしました。しかし、就職活動をしていく中で「マスコミで必ずしも自分が思い描いてきた仕事に就けるとは限らない」と気づき、商品に携わる仕事にも視野を広げ、メーカーや商社などにもエントリーしました。選考に進む中で、ナチュラルチーズやグルメ食材を扱う事業を通して、人々の生活を豊かにできること、そして、若手にも裁量を与えて責任ある仕事を任せていく社風に魅力を感じ、入社を決意しました。

-入社後はどのように仕事を覚えていったのですか?

新入社員2名は、数日間のビジネスマナー研修後、すぐに社長直属の新規事業であるペットフード事業を担当することになりました。6月には、社長に同行してイギリスに出張し、現地ペットフードメーカーとの商談通訳を務めるなど、実践で仕事を覚えていきました。商談に同席しながら、「社長はどのような視点で経営判断していくのか」を間近で見ることができ、とても勉強になりました。

10月にはペットフードの販売がスタートし、商談から輸入手続き、販売サイトのシステム開発、商品発送、お客さま対応まで、1年目で主要業務をひと通り経験することができました。最初の注文が入った時は、本当にうれしかったですね。当時は発送伝票を手書きしていたので、最初に発送したお客さまのお名前は今もフルネームで記憶しています。最も苦労したのは、システム開発のディレクションです。まったく知識がなかったので、社長と外注先のシステム開発会社との間で飛び交う専門用語を、エンジニアの友人に聞いて必死で勉強しました。

-新人時代に印象に残っているエピソードを教えてください

ペットフード事業と並行して、輸入食材のバイヤー業務も行っていましたが、失敗の連続でした。5歳の時にアメリカに住んでいたことから、アメリカのピーナツバターを輸入したいと考え、入社前からインターネットで検索を続けていました。入社半年後ぐらいに、パッケージが目を引く高級ピーナツバターを見つけ、サンプルを取り寄せて試食。社長の承認を得て、輸入・販売をスタートしました。

自分がゼロから手がけた初めての商品だったので、期待は大きかったのですが、スーパーマーケットには手ごろな価格の商品がいくつも並んでいる上、日本の家庭には容器が大き過ぎたようで、ほどなく販売は中止に。内心落ち込みましたが、「これは失敗ではない。市場のニーズに合っていない商品は売れないという新しいデータが1つ増えたと考えればいい」と励まされ、次の挑戦への意欲が湧きました。

■ 仕事中の1コマ

普段は海外取引先とメールや電話でやりとりをすることが多い野原さん。展示会の出展や新しい商品探しなどで、年6回以上は1週間から10日程度の海外出張をこなす。ヨーロッパ、アメリカ、アジアと行き先はさまざまだ。

→次回へ続く

(後編 12月1日更新予定)

取材・文/笠井貞子 撮影/刑部友康

<後編>松崎英吾 | 仕事とは?(就職ジャーナル)

仕事とは?
<後編>松崎英吾

まつざき・えいご●1979年、千葉県生まれ。2003年、国際基督教大学卒業後、株式会社ダイヤモンド社、ベネッセ・コーポレーションに勤務。業務のかたわらブラインドサッカーの手伝いを続けていたが、「ブラインドサッカーを通じて社会を変えたい」との思いで、2007年11月より日本視覚障害者サッカー協会(現・NPO法人日本ブラインドサッカー協会)の事務局長に就任。スポーツにかかわる障がい者が社会で力を発揮できていない現状に疑問を抱き、障がい者雇用についても啓発を続ける。サステナビリティ(持続可能性)を持った障がい者スポーツ組織の経営を目指し、事業型非営利スポーツ組織を目指す。

前編ではブラインドサッカーに出合い、競技団体の事務局長として組織の運営を軌道に乗せるまでをうかがいました。
後編では松崎さんの取り組みによる視覚障がいがある選手たちの変化や、今後の課題についてお話しいただきます。

■ ビジョンを明確化し、共有することで進むべき道が見えた

-事務局長に就任されて今年で10年目。企業向けの研修プログラムや「スポ育」も今やキャンセル待ちの人気とか。プログラムの講師は視覚障がいのある選手たちが務め、雇用にもつながっているようですね。

何よりもうれしいのは、事業を通して彼らの姿勢がポジティブに変化したことです。僕がブラインドサッカーに出合い、視覚障がいがある選手たちと交流を深める中で、不思議に思うことがあったんですね。どの選手もピッチではすごく積極的なのに、ピッチから一歩出た途端、どこか受け身になってしまう。更衣室で着替えて、ふと周囲を見渡したら、さっきまで「しっかり声を出して!」とリーダーシップを発揮していた選手が介助されるのを待って立ちすくんでいたりするんです。「ひと声かけてよ」と言うと、「そっちがかけてよ」なんて言い返され、こちらも思わずムカッとしたりして(笑)。彼の心細い思いはもちろん理解できるのですが、「ピッチであれだけ自由に動いているのに、どうして」と歯がゆく思っていました。

そんな選手たちが、今では「スポ育」で子どもたちを前に自分の障がいとの向き合い方や競技について胸を張って語っている。その語り口も「支えてください」という受動的なものから、「僕はこんなことを社会に働きかけていきたい」という能動的なものに変わっていきました。「自分が発信をする」「自分が価値を創出していくんだ」という意識がみんなの中に育っていることを感じます。ただ、障がいのない方たちを対象とした事業を始めるに当たっては、選手や協会関係者から「競技団体というのは選手の強化や競技がミッションなのに、どうしてこんなことをするのか」「障がいのない人たちに対して、なぜ障がい者がサービスをしなければいけないのか」という批判も少なからずありました。

-どのようにして協力を得られるようになったのですか?

僕が事務局長に就任した当時、協会には明確なビジョンが掲げられておらず、僕自身も一つひとつの事業をなんのためにやるのか言語化できていませんでした。事業をみんなになかなか理解してもらえないのは、それも理由の一つかもしれないと考え、策定したのが「ブラインドサッカーを通じて視覚障がい者と健常者が当たり前に交ざり合う社会を実現すること」というビジョン。これは選手や理事はもちろん、ボランティアさんやマスコミ関係者など協会をサポートしてくださる方たちを集めてワークショップを行い、みんなで決めたものです。策定までにはさまざまな議論もありましたが、ビジョンを明確化し、共有することで進むべき道が見えたことがすごく大きかったですね。障がいのない人向けの事業についても「障がい者と健常者が交ざり合うというのは、障がい者に向けてアクションを起こすだけでは実現しない。マジョリティーの人たちに働きかけ、社会の在り方を変えていくことが大事だよね」とクリアに説明できるようになり、一人ひとりに納得して協力してもらえるようになりました。

■ 「2020年」が追い風になるかリスクになるかは自分たち次第

-今後に向けて、課題に感じていることはありますか?

現在は試合に足を運んでくださるお客さまや協賛を頂く企業が増えていますし、「スポ育」などの事業も好調ですが、2020年の東京パラリンピック以降もこの需要が続くかどうかはわかりません。「2020年」が追い風になるか、リスクになるかは僕たち次第。パラリンピック競技の注目度が高まっている今だからこそ、事業拡大と合わせて、観戦環境を整えたり、「スポ育」などのプログラムの意義や効果を広く伝えていくなど地盤固めも大切にしようと思っています

■ 学生へのメッセージ

学生時代はまだ勉強や経験が十分ではなくて、自分が思い描いていることを発信した時に「学生のくせに生意気な」と否定されることも多いかもしれません。でも、その生意気さこそが学生の財産で、社会を知らないからこそ、真っ白なスポンジで物事を吸収して、枠にとらわれずに何かを思い描ける。僕も今、38歳でブラインドサッカーに出合ったとしたら、障がい者スポーツにかかわる仕事で食べていったり、障がい者のスポーツを障がいのない人に広げていくことが「実現できる」とはイメージできなかったはずです。「よそ者」「若者」「バカ者」だったからこそ、夢を大きく広げることができた。学生時代に描いた理想とか夢というのは社会に出ても心の真ん中にあって、迷ったときも道しるべとなるものなので、今の皆さんの社会に対する感じ方、捉え方を大事にしてほしいなと思います。

■ 松崎さんにとって仕事とは?

-その1 自分にできることをやるうちに、役割や出番を与えられる

-その2 相手に対して価値を提供して初めて、対価が払われる

-その3 ビジョンを明確にすることで、進むべき道が見える

■ INFORMATION

日本ブラインドサッカー協会公式サイト http://www.b-soccer.jp

大会やイベントの最新情報を掲載しているほか、ブラインドサッカーの歴史やルールもわかりやすく解説。松崎さんや日本代表の選手たちのブログも読める。

■ 編集後記

松崎さんは大学入学時からジャーナリストを志望し、卒業後は雑誌の記者に。その後、日本ブラインドサッカー協会の事務局長となり、活躍のフィールドは移りましたが、職種が変わっても仕事に向かう原動力は同じだそうです。その原動力とは「本質的な問題だけど、世の中であまり知られていないことを明らかにしたい」という思い。浪人時代に環境問題を報じた記事を読んでその内容に衝撃を受け、「世の中の大事なことは埋もれていて、みんなが知っているとは限らない」と感じたことがきっかけだったそうです。「学生時代に描いた理想とか夢というのは社会に出ても心の真ん中にあって、迷ったときも道しるべとなる」という松崎さんのメッセージは、ご自身の体験に裏打ちされたものだけに大きくうなずけました。(編集担当I)

取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康

<前編>松崎英吾 | 仕事とは?(就職ジャーナル)

仕事とは?
<前編>松崎英吾

まつざき・えいご●1979年、千葉県生まれ。2003年、国際基督教大学卒業後、株式会社ダイヤモンド社、ベネッセ・コーポレーションに勤務。業務のかたわらブラインドサッカーの手伝いを続けていたが、「ブラインドサッカーを通じて社会を変えたい」との思いで、2007年11月より日本視覚障害者サッカー協会(現・NPO法人日本ブラインドサッカー協会)の事務局長に就任。スポーツにかかわる障がい者が社会で力を発揮できていない現状に疑問を抱き、障がい者雇用についても啓発を続ける。サステナビリティ(持続可能性)を持った障がい者スポーツ組織の経営を目指し、事業型非営利スポーツ組織を目指す。

■ 自分の中にあった強い偏見がブラインドサッカーを通じて消えていった

-松崎さんがブラインドサッカー(※1)に出合ったのは、大学時代だそうですね?

(※1)視覚障がい者のために考案された5人制のサッカー。選手はアイマスクをつけ、音が出るボールと敵陣のゴール裏にいる「ガイド」の声を頼りに競技を行う。日本に紹介されたのは2001年。視覚以外の全感覚を研ぎ澄ませて展開される迫力のある試合が魅力で競技人口を年々増やしている。2020年東京パラリンピックでは「5人制サッカー」として正式競技のひとつでもある。

大学3年生の時に友人から誘われ、奈良県郊外のゴルフ場で行われた合宿を軽い好奇心から見に行ったのが始まりです。当時は「ブラインドサッカー」という呼び名もなく、「視覚障がい者の人たちがやるサッカーみたいな競技をのぞきに行く」といった感覚。サッカーがものすごく好きだったわけでも、視覚障がい者への理解があったわけでもありません。むしろ、障がい者には苦手意識を持っていて、正直なところ、「あまりかかわりたくない」と思っていました。

-合宿に行ってみていかがでしたか?

もう、待ち合わせ場所に着くなり後悔の嵐です。すぐそばで僕と同じくらいの年齢の男性が5名くらいの選手たちをすっと介助して歩いているのに、僕は何をすればいいのかわからず、立ち尽くすばかり。バスで隣り合わせた選手と自然に話すこともできず、「なんで来ちゃったんだろう」と思いました。ところが、選手の一人に「ザキちゃん(松崎さんの愛称)もやってみなよ」とアイマスクを渡され、30分ほどパスの練習をしているうちに、なんだか、彼らの輪に入っていけそうな気がしたんですね。練習以外でも一緒にお風呂に入ったり、夜は少し飲みながら男子トークをしたりして、合宿から帰るころにはみんなと友達みたいになっていて。自分の中にあった障がい者に対する強い偏見が、一緒にピッチに立つことで消えていった。それは僕にとってものすごくインパクトのある経験でした。

■ 自分にできそうなことをやっているうちに役割や出番を与えられた

-その後はどのようにブラインドサッカーとかかわっていったんですか?

合宿から戻った後に関東在住の選手から「練習場所がない」と聞き、地元の小学校のグラウンドを借りるお手伝いをしたんです。それをきっかけに、現在僕が所属する「日本ブラインドサッカー協会(以下JBFA)」の前身団体の活動に参加するようになりました。大学卒業後は出版社に就職しましたが、仕事の合間に活動は続けていて、試合にゴールキーパー(※2)としての参加や、開催が始まって間もない日本選手権の運営のサポートなどをしていました。自分にできそうなことをやっているうちに役割や出番を与えられ、みんなの役に立てたり、失敗して悔しい思いをしたり、リアルな手応えを感じられる。それは僕にとって、会社の仕事では得られない報酬でした。

(※2)ブラインドサッカーのゴールキーパーは晴眼者(視覚に障がいのない人)または弱視者が担当する。

当時、選手たちとは毎週のように飲みに行っていました。今では日本代表として活躍している選手も当時は上手とは言いづらい状態で(笑)。ピッチでけんかもしながら、「強くなるにはどうすればいいか」をみんなで真剣に探す日々でしたね。

-専業として携わるようになった経緯は?

ブラインドサッカーを含め、当時の障がい者スポーツの協会にはお給料をもらって働いているスタッフはおらず、行政の支援やボランティアで成り立っている状態で、お金のことを考えるのはタブーというような雰囲気があったんですね。でも、僕はこの世界の常識を知らなかったので、「自分たちで事業を展開して資金を得れば、活動の幅が広がるのに」という思いが強くて。一方、出版社では雑誌の記者として忙しくしていて、ブラインドサッカーの活動に費やせる時間がほとんど取れない時期もある。協会の先輩たちにあれやこれや提案するものの言葉に説得力がありませんでした。

そこで、1年かけて事業計画を練り、協会の方々の賛同を得られたら専業でブラインドサッカーに携わる覚悟でプレゼンテーションをしたところ、「そこまで言うなら、やってみたらいい」という言葉を頂きました。実はもともとは協会に迷惑をかけないよう独立して事業を立ち上げ、業務提携というスタイルで一緒にやっていけたらと考えていたんです。ところが、その日の夜に理事長と初代の事務局長から呼んでいただき、「ぜひ、協会の中で実現していってほしい」と2代目の事務局長を任せていただけることになりました。

■ 自分のスタンスを変えることで、相手の理解を得られるようになった

-事務局長就任後、事業計画はスムーズに実現しましたか?

若気の至りと言いますか、ブラインドサッカーに専従することを決めた時は、「まあ、なんとかなるだろう」と思っていたんですね。でも、実際は全然なんとかなりませんでした(笑)。今でこそJBFAには30社ほどの協賛企業に付いていただいていますが、当初は2カ月かけて200社にアプローチし、アポイントが取れたのは3社ほど。そのうち2社は1度お会いしたきりで、1社はお茶飲み友達になってしまいました。一般の小学生を対象としたブラインドサッカーの体験授業も企画し、「ブラインドサッカーの楽しさを知ってほしいんです」と学校へのアプローチも始めましたが、興味を持ってくださる先生はいませんでした。「子どもにブラインドサッカーをやらせても、教育的になんの意味もないじゃない」と率直に言われたこともあります。

-厳しいですね…。

「一生懸命やっているのに、なぜ理解してもらえないんだろう」と落ち込みました。でも、その先生の言葉で気づいたのは、「自分たちはどこかズレているんじゃないか」ということです。当時は「日本代表が頑張っているから、応援してください」「ブラインドサッカーを知ってください」とお願いをするばかりで、こちらが企業や学校にどういう価値を提供できるかをまったく説明できていませんでした。「価値を提供して初めて対価が払われる」というのはビジネスでは当たり前のことですが、その視点が欠けていたことを反省しました。

だから、今ではまずコミュニケーション力やチームビルディング、多様性の理解といったスキルの向上を目的としたワークショップに参加していただき、ブラインドサッカーの意義を実感してもらった後に協賛のお申し出を頂くというケースがほとんどです。企業に協賛をお願いしに行くことはなくなりました。かつては「体験会」と銘打っていた小学校での体験授業も、「スポ育」と名前を変えて、「子どもたちの教育にこんな効果がありますよ」と伝えるようにしました。そうやって自分たちのスタンスを切り替えることで、応援してくださる方が増え、競技の認知度も高まっていきました。

後編では松崎さんの取り組みによる視覚障がいがある選手たちの変化や、今後の課題についてお話しいただきます。

→次回へ続く

(後編 11月29日更新予定)

■ INFORMATION

日本ブラインドサッカー協会公式サイト http://www.b-soccer.jp

大会やイベントの最新情報を掲載しているほか、ブラインドサッカーの歴史やルールもわかりやすく解説。松崎さんや日本代表の選手たちのブログも読める。

取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康

<後編>外務省 | WOMAN’S CAREER(就職ジャーナル)

WOMAN’S CAREER
<後編>外務省

今回の取材先 外務省
日本の国益を増進し、平和で安定したより豊かな国際社会の構築を目指す外務省。職員は、日本では外交政策を立案する「外務官僚」として、海外駐在中は世界各地の大使館・総領事館などで働く「外交官」として、安全保障や経済、国際的なルールメイキングへの参加や交渉、海外の日本人の保護、日本の正しい姿の発信など多様な課題に取り組んでいる。
やまさき・まりあ●外務省アジア大洋州局 南部アジア部 南西アジア課 課長補佐。東京都出身。30歳。東京大学法学部卒業。2010年入社。現在、夫と4歳の長男と3人暮らし。
前編では、フランスでの在外研修中に長男を出産し、学生生活との両立を続けたことをお話ししてくださった山崎さん。後編ではパリでの勤務や、海外出張の多い南西アジアとの外交担当として活躍しながら、プライベートを充実させて働く工夫をうかがいました。

■ 世界195カ国のユネスコ加盟国代表団と出会い、多角的な視点を身につけた

-在外研修後、現在の仕事に至るまでについて教えてください。

フランスで2年間の在外研修を終えたあと、入省5~6年目は、パリにあるユネスコ日本政府代表部で、世界遺産の登録業務をはじめ文化分野の外交に取り組みました。
研修後の次のキャリアには「日本での勤務」か「在外勤務」の大きく2つの選択肢があります。フランス語を活用した在外勤務の場合、アフリカ諸国での途上国勤務が多いため、1歳の息子を連れて行くのは負担が大きいかもしれないという不安もありました。ただ、せっかく2年もの間学ばせていただいたのだから、習得した語学を活用した仕事をしたいという思いが強く、リスクを覚悟して在外勤務を志望することに。すると、人事部の配慮もあってかパリの勤務となり、一緒に渡仏していた母とともにパリでの生活が始まりました。夫はロンドンでの在外勤務となり、月に1~2回はユーロスター(ロンドンとパリ間を結ぶ国際列車)で片道約2時間かけて家族が集まる生活を2年間過ごしました。

当時の業務内容としては具体的に、「明治日本の産業革命遺産」や、「ル・コルビュジエの建築作品」(東京・上野の国立西洋美術館をはじめとした7カ国の17施設)の世界文化遺産登録などに従事。「明治日本の産業革命遺産」は、日韓の歴史問題が複雑にかかわった案件で、外交に携わる者として、さまざまな国や地域の立場を考えながら歴史を学び正しく発信する重要性を、あらためて感じさせられました。
ユネスコには、世界195カ国の加盟国代表団がいます。相手が日本の文化や歴史を必ずしもよく知っているとは限らず、こちらの知識を前提としたコミュニケーションでは関係が深まりません。世界遺産の登録を目指す過程においても、世界全体にとってその遺産の登録はどんな価値があるのかを相手にストンと落ちるように説明する必要があります。また、大国も小国も同じルールの下で議論 を行うマルチ外交では、ルールをよく勉強し活用する姿勢も大事です。そういったマルチ外交の基本姿勢は、ユネスコ代表部勤務時代に共に働いた先輩たちから学び、とても鍛えられました。

-パリでの仕事と子育ての両立で、苦労したことはありましたか。

ユネスコ代表部では、周りの職員がみんな子育てをしながら働いていたので、仕事と子育ての両立が当たり前の環境という心強さがありました。また、フランスでは2歳から幼稚園に入ることが権利として保障されているため、いわゆる「待機児童」はいません。幼稚園は自宅から徒歩3分のところにあり、夜の6時まで子どもを預かってくれるため、子育てをしながら仕事をしやすい国だと感じました。私の場合は、母が「フランスで子育てをサポートする」という大きな決断をしてくれたおかげで、全面的に頼り、仕事を続けることができました。東京に帰ってきてからもそうですが、感謝のあまり足を向けて寝られません(笑)。

■ 平日は家族総出の子育て態勢。休日は子どもと目いっぱい一緒に過ごす

-現在の仕事内容について教えてください。

ユネスコでの2年間の勤務を経て帰国し、現在は南西アジア課で、インドをはじめ南アジア7カ国との外交を担当しています。
具体的には、2017年7月に発効になった日印原子力協定や、日米印3カ国の協力などを担当。日印原子力協定は、インドに原子力技術の輸出を認め、インドの原発市場への日本企業の参入が可能になるという賛否ある内容だったこともあり、2010年から長い時間をかけて交渉され締結に至ったものでした。国会審議のための資料を作成するために深夜残業した日も数知れず。厳しい審議を通って、無事、日印で協定が交わされた際は、歴史的瞬間に立ち会えたという大きな達成感がありましたね。

-仕事と子育てとの両立で、利用した省内制度や働き方の工夫について教えてください。

現在、週に1日はテレワーク勤務(時間や場所を選ばずに働ける勤務形態の一種。在宅勤務)をするようにしているので、その日は朝夕に子どもと過ごす時間をとることができます。「使える制度はどんどん活用しよう」という課の方針もあり、幼稚園への見送りに合わせてフレックスタイム制度を使ったこともあります。柔軟な働き方を選べる課の雰囲気には非常に助けられています。
業務上どうしても海外出張が入ってしまったり、深夜に急な資料づくりが発生したりと、平日に子どもと一緒にいる時間が限られているので、休日は2日間、目いっぱい子どもと過ごすことは欠かさないようにしています。

休日は、息子との時間をたっぷりと取る。近所の公園など外で遊ぶことが多い。

■ ある一日のスケジュール

インドとは3時間の時差があるため、現地とのやりとりは午後行う。子どもの迎えは母にお願いし、21時前後に帰宅することが多い。

取材・文/田中瑠子 撮影/鈴木慶子

<前編>外務省 | WOMAN’S CAREER(就職ジャーナル)

WOMAN’S CAREER
<前編>外務省

今回の取材先 外務省
日本の国益を増進し、平和で安定したより豊かな国際社会の構築を目指す外務省。職員は、日本では外交政策を立案する「外務官僚」として、海外駐在中は世界各地の大使館・総領事館などで働く「外交官」として、安全保障や経済、国際的なルールメイキングへの参加や交渉、海外の日本人の保護、日本の正しい姿の発信など多様な課題に取り組んでいる。
やまさき・まりあ●外務省アジア大洋州局 南部アジア部 南西アジア課 課長補佐。東京都出身。30歳。東京大学法学部卒業。2010年入省。現在、夫と4歳の長男と3人暮らし。写真は、南西アジア課メンバーとの打ち合わせ風景。
南西アジア7カ国との外交担当として活躍する山崎さん。前編では、入省の経緯や「研修生」として社会人の基礎を叩き込まれた1~2年目、ライフステージの大きな変化を迎えた海外での3年目など、激動の新人時代を振り返っていただきました。

■ オープンでフラットな先輩方の人柄にひかれた

-就職活動時に仕事選びの軸にしていたことは何ですか?

在学中から漠然と、異なる文化に触れ、自分の世界がどんどん広がっていくような仕事がしたいと考えていました。司法試験にチャレンジする道を考えたこともありましたが、法学よりも社会問題に広く携われる方が自分の興味に合っていると考え、国家公務員試験勉強に力を入れることにしました。

-何が入省の決め手になりましたか?

試験(現 国家公務員試験総合職)に合格すると、志望する3つの省庁を見学(官庁訪問)できるんです。そこで初めて外務省を訪れ、「自分がやりたいことはここにある」と確信。もともと持っていた国際協力への関心があらためて引き出されていく感覚がありました。在学中は、模擬国連サークルで国際問題について調べたり、開発途上国支援の活動のために海外を訪れたりしたことがありましたが、当時は「外務省の仕事ってこんなもの」と少々偏った視点を持っていたんです。
でも、外務公務員の先輩たちは、官庁訪問に来た私の話をよく聞いてくれ、間違った知識を指摘しては丁寧に説明してくれ、とてもリラックスした雰囲気で応じてくれて。「こういう人になりたい、一緒に働きたい」と思う方が多く、働くイメージを具体的に持つことができました。

■ 「研修生」として、社会人の基礎を身につけた1~2年目

-新人時代の仕事内容を教えてください。

外務省では、入省1~2年目は電話取り、頼まれた資料のコピー取り、議事録作成、企画資料作成など社会人としてやるべき基礎的な仕事を身につける時期とされています。私が配属されたのは、開発途上地域の経済協力に関してさまざまな計画を立案する、国際協力局開発協力総括課でした。当時は官民連携のプロジェクトも多く動き出し、ODA(Official Development Assistance:政府開発援助のための公的資金)の一つである、草の根無償(草の根・人間の安全保障無償資金協力)で現地のNGO団体を支援し、そこに民間企業も連携させるといった活動もありました。例えば、「開発途上国で畑を耕して製品の原料を生産したい」という国内メーカーと、畑の地雷除去活動を行うNGO団体を結び付けます。すると、畑がキレイになることで企業は土地を活用でき、現地の方々にとっては安全な土地が確保され、雇用も生まれるというWin-Winの状態が生み出せます。
私自身は、そういったプロジェクトを動かすための資料作成など、補佐的な仕事しかしていませんでしたが、国際協力がどう動くのかを間近で見られる貴重な学びの時間でした。

■ 渡仏中の出産。子育てと学生生活の両立に必死だった

-キャリアのターニングポイントとなった仕事、出来事について教えてください。

入省3年目になると、外務省職員(現 国家公務員試験総合職と外務省専門職員採用試験によって入省した職員)は全員2年間の在外研修に行きます。在外研修を経て、現地での在外勤務が続くことも多く、キャリアの中ではとても重要な期間です。
外務省職員は、例年入省前に7言語(英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、アラビア語、中国語)の中から1言語を研修語学として言い渡され、在外研修の2年間でその語学の習得を目指します。私は、学生時代に第二外国語として取っていたフランス語を学ぶべく、南仏のエクサンプロバンスという小さな街での研修を選択。渡仏1年目は語学の習得に集中し、2年目に大学院に通いました。地元の大学院に、国際人道法で有名な教授がいたため、その修士号取得を目指すことに。フランスは「国境なき医師団」が結成された国であり、人道法や人道支援に関して先駆的な国なんです。在外研修は、その2年間をどこでどう過ごそうと個人に任せられていて、自由でもありましたが、それだけ「学びのある2年間にしなくては」という重責もあります。私の大学院は朝8時から夜20時まで授業がびっしり詰まっていることもあり、今振り返ってもよくやり切ったなと思います(笑)。

生活環境の変化と同時に起こった人生の大きなターニングポイントが、長男の出産でした。入省2年目に結婚し、妊娠がわかったのは在外研修に行く前。
「渡仏するべきか否か」を人事や上司と相談すると、産休・育休を取得したのちに在外研修に行く選択肢も提示してくれ、続けられる方法を一緒に考えてくれました。そのサポート姿勢が非常に心強く、今でもとても感謝しています。ただ、ずっと準備してきた研修を頑張りたいという思い、また赤ちゃんが生まれる前の方が勉強しやすいのではという子育て経験者の助言もあり、悩み抜いて出した方法は、母に一緒にフランスに来てもらうことでした。
夫は省内の同期で、イギリスへの在外研修が決まっていたので一緒に暮らすことができず、いきなりの遠距離結婚に。母のビザを用意しバタバタと渡仏したあとも、慣れないフランス語と現地での生活、初めての子育てと勉強の両立に、毎日が必死でした。

■ 山崎さんの入社後のキャリアグラフ

これまでご紹介した山崎さんの社会人1年目からのキャリア、現在に至るまでのプライベートにおける「心の充実度」の変化を、ご自身にグラフにしていただきました。

後編では、在外研修後の仕事内容ややりがい、子育てとの両立の工夫について話をうかがいます。

→次回へ続く

(後編 11月24日更新予定)

取材・文/田中瑠子 撮影/鈴木慶子

<後編>日本信号株式会社 | ビジネスパーソン研究FILE(就職ジャーナル)

ビジネスパーソン研究FILE
<後編>日本信号株式会社

今回の取材先 日本信号株式会社
事業内容:鉄道や自動車、航空、駅などで使用される多様な交通システムに必要な製品の製造・販売を手がけ、社会インフラを支える。例えば、鉄道関係では、「鉄道信号制御装置」「自動券売機」「自動改札機」などの開発・保守を行い、安全運行を支えると同時に、利用者と駅業務の従事者に対する交通システムの効率化・迅速化などにも貢献。「人にやさしい社会の実現」を目指し、きめ細かな配慮と高度なテクノロジーを通じ、安全で快適な生活をサポートするシステムを提供する。
前編では、現在入社11年目の田代智志(たしろ・さとし)さんに新人時代についてうかがいました。後編では、これまでのキャリアの中で印象に残っていること、1日のスケジュールをうかがいました。

■ 印象に残っている仕事と日本信号で働く魅力

-担当してきた仕事で印象に残っていることを教えてください

仙台の東北支店に異動した入社8年目、仙台市交通局様を担当し、初めて入札を手がけました。地下鉄南北線の信号や標識、ケーブル、機器室の端末などを更新する十数億円規模の案件。入札で競合他社に勝つためには、企業が公示する予定価格と最低入札価格の幅の中で、より安く、より充実した提案をしなければなりません。入札資料の作り方も情報収集の方法もわからないまま、仙台市の公営地下鉄に関連する入札資料を読み込み、上司や同僚に話を聞きながら手探りで学んでいきましたね。そこから自社製品をベースに、どんな部品や機器が必要なのかを考え、各種部品メーカーともやりとりしながら見積もりを作成していきました。
無事に案件を取り、事業部長から表彰を受けることもでき、いい経験になりました。3年計画の工期が終了する前に本社異動となりましたが、完成したら乗りに行きたいと思います。

-今後の目標を教えてください

物事を大局で捉える力を身につけ、若手社員を引っ張っていくような存在になることですね。最近では、日本信号として地域全体にどう貢献していくかを常に考えています。鉄道は、相手が見えにくい仕事なので、地域の人たちのためにインフラを守っていくという姿勢を忘れてはいけない。東北支店にいたころ、転勤者同士のつながりを生むコミュニティーを立ち上げた経験もあるので、自分に何ができるかをこれからも考えていきたいです。

-働いてみて感じる日本信号の魅力を教えてください

交通に関連するインフラ製品やシステムを広く扱い、事故予防や設備保全などの提案もできます。それらは国内だけでなく、海外諸国でも求められるため、世界のインフラや地域の発展にもかかわることができ、活躍のフィールドは幅広いですね。今、交通インフラは無線の信号制御がITシステム化されるなど、過渡期にあります。この会社では、若いうちから大きなプロジェクトを任せてくれるので、時代の転換点の中、歴史に残るインフラシステムに携わるチャンスも多いと思います。
私たちの仕事は、「安全運行の仕組み」に携わるため、一見地味です。しかし、「無事に運行していること」こそ、やり遂げた証拠。自分の仕事を残す大きな達成感を味わえますよ。

-学生へのメッセージをお願いします

働く中で人の価値観は変化するもの。今の自分の視点だけにとらわれることなく、自分の成長に合わせて道を選べるよう、多様な事業を手がけている企業を選んだ方がいいと思います。

■ ある一日のスケジュール

6:30 起床。朝食を取ってから会社へ向かう。
8:30 出社。メールチェックとその日の予定確認。
9:00 グループミーティングに参加。各メンバーの進捗状況を共有。
11:00 見積書、提案書を作成。
12:00 部署のメンバーと近場のレストランでランチタイム。
13:00 JR東日本の本社を訪問。進行中の案件について打ち合わせ。
15:00 JR東日本の工事事務所を訪問。新規案件の提案を行う。
17:00 帰社。本日の打ち合わせの要点を整理。明日に向けて資料などの準備も行う。
18:30 退社。帰宅後はゆっくり読書。週に一度、ジムにも通っている。
 

■ プライベート

東北支店時代に転勤族を集めて飲み会を開催した時の写真。壁側左から4人目が田代さん。2015~16年に現地で活動していた時のものだが、「今後もこうしたヨコのつながりを広げる会を開催していきたいです」と話す。

取材・文/上野真理子 撮影/刑部友康